「実践とは価値観を行動で現わしたもの」だと考えること

永平寺で購入した 道元禅師からのメッセージ には、うちのボスも好きな道元禅師の言葉がある。

修せざれば現われず。(Without Practice, No Emergence)

この言葉には次のような解説がついている。

「知る」ということと「わかる」こととはちがうのです

知ってはいても実行されなければ

わかったことにはなりません

薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません

禅も実行してはじめてわかることなのです

つまり、「わかる」ためには実践しなければならないということだ。

また実践には別の側面もあると考えている。それは「価値観」を現実世界に現わす行動であるということである。 「持続的な社会の構築が重要だ」という価値観をもっていると自分で思っていたとしても、実際の行動に現われないのでは 価値観をもっていることにはならないに等しい。価値観を現わすには、その価値観に即した行動つまり実践をする他ないということだ。

つまり

価値観は実践を通じてのみ分る

価値観は実践を通じてのみ現わすことができる

と言い換えることができるのではないだろうか。

ここでいわゆるeXtreme Programming界隈でよく言われる「プラクティス偏重である」という指摘について考えてみる。 まず「プラクティスの実践」 [1] という行為は「本を読んだだけではわからない、価値観を理解するための行動」という意味で重要だ。 次に、価値観の体現という意味では、実践しなければ意味がない。ただし実践は価値観とは異なり、状況に応じてその姿を変える必要がある。 「実践」のための実践になってしまうと、状況に関係なく「実践」が目的になってしまう。これでは本末転倒と言わざるを得ない。 実践はあくまでも 価値観の現われとしての実践 でなければならない。

重要なのは、自分の立ち位置を知ることではないかと思う。 今自分が実践していることは「価値観をわかるため」なのかそれとも「価値観を現わすため」なのかを常に問いかけ続ける姿勢が必要なのではないだろうか。

プラクティスは 処方箋 のような対処療法的なものではなく、もっと本質的な価値観の表現方法である、そう考えたい。 [2]

[1]: プラクティスの実践とは変な日本語だな(^^;
[2]: そして価値観すら単なる物差しである、ということを知ることも必要だ

Comment by りょー on Thu Oct 5 14:23:38 2006

がっしゅ

Error: Failed to load processor AddComment
No macro or processor named 'AddComment' found