第20回 XPユーザー会

今回は名著アジャイルプラクティスの監訳者の角谷、木下両氏を呼んでの記念すべき20回目のユーザー会だった。実は、人に言われるまで「20回」という数に何の特別な意識ももっていなかったのだけど、あらためて「20回」というのは記念だよねという気持を込めて、センターのホワイトボードに「20回 XPJUG アジャイルプラクティス」という下手な字を書いたのは私。

さて記念すべき20回目の内容は、書籍アジャイルプラクティスについて監訳者二人が語るという新しい試みだった。一言で言ってしまえば大成功のイベントになったんではなかろうか。本企画は冒頭の挨拶をしてくれたpapanda氏の熱い提案によって実現された。GJ。

まず角谷さんの話。翻訳書のビジョンを掲げる点は見習いたい点だった。あとアジャイルを ルネサンス と表現したのはうまい!さすが表現の魔術師。中で「ソフトウェア開発はソフトウェア開発に似ている」って表現していた(オリジナルはDave?)けど、それは喩えとは言わないよ(w でも同じことを、 真島さんも言ってた よ。角谷さんは ソフトウェアが様々な喩えで表現されることについて警鐘の意味を込めて上記表現を紹介したそうだ。

つまり、メタファーは、AがBであると言ったところで、A=Bと同一視するものではないことに注意しなければいけないということだ。「建築とはここが違う」ってそりゃ当たり前。あくまでもメタファは対象を別の対象にマッピングすることで、ある側面を強調するのが目的であって、同一視することが目的ではない。メタファーを使って何を強調したいかを受け取り手が理解しようとすることが重要ではないだろうか。建築のメタファーでは何を強調したいのだろうか? ガーデニングでは? 製造業では? ぼくらは様々なメタファーを使って、ソフトウェアという今までにない複雑な存在を認識しようとしているのだろう。

メタファーについて詳しく知りたい人は レトリックと人生 を是非読んでいただきたい。

ををっと、話が大きく逸れてしまった。アジャイルプラクティスの表紙について言うならば メガテン好きにはたまりません 。天使長ルシファーが地に堕ちてサタンになる、このモチーフで飯何杯も食えるので。

次に木下さんの発表。木下さんは更に自身の経験を深掘りして表現したんだなぁと感嘆した。今、日本で事例を語らせたら、その熱い想いと真摯さでは追随を許さない木下さんが、ブラックな過去を話しただけでも価値があったのではないか。こういう部分ってなかなか表に出せないけど、それを敢えてネタにしてAgileへの転換を際立たせた、これもまさに ルネサンス(再生) だよなぁ。あと習慣の話を聞いていて思い出したのが 行動が人をつくる という言葉。アジャイルプラクティスはこれなんじゃないかな。

あとアジャイルについて、工夫の余地があることという表現をしていたけど、Small is Beautifulの中間技術(Intermediate Technology)の中で述べていることを思い出した。つまり、生産効率が高く工夫の余地のない機械的な仕事よりも、生産効率が悪くても工夫の余地のある人が人らしく働ける仕事、こちらに価値があるとシュマッハーは提唱したのだ。この点についてAgileと中間技術の間に非常に近い類似性を見出すことができる...ををっとまた脱線。

次にプラクティスビンゴ(すきなプラクティス番号を5つ書いて、ひとつずつ参加者に番号と好きな理由を話してもらう)は、思いつきの割に、時間的にも内容もよかった。というか司会の福井さんがよかった。そして何より参加者が発表するという機会が増えたのが嬉しい。参加者にどんどんしゃべってもらいたいなぁ。発表者がいなくなると、途端にスタッフが手を挙げてアピールするのは 手を挙げるの早すぎ と懇親会で指摘された。今後は自重して2秒くらい待つようにしようと思う(w スタッフの間では、プラクティスワールドカフェなんてのもやりたいよねという話も出たよ。これも面白そうだな。

最後に私から読書会開催の注意事項を述べさせてもらった。本当はこのユーザー会でアジャイルプラクティス読書会をぶちあげたかったのだけど、諸事情により取り消せざるを得なくなってしまった。その代りではないけれど、まずは社内、仲間うちでこの本の読書会を開いてみてはいかがでしょうと提案したい。参加者には、もちろん「アジャイル」で脊髄反射する人は当然として、そうでない方にも参加してもらって意見を交してみてみると面白いと思う。その時には1章はとばして先を読みすすめることをお薦めしたい。

懇親会では、一部でAgile2008残念会みたいになってたけど、あの人数と盛りあがりはすごいなぁ。死角があって誰がどこにいるのかがわからなかったのが、ちょっと残念。 毎回初参加者がいるコミュニティは活気があってよい、ということをあらためて実感した。